模写

文芸評論家としてスタートした柄谷先生が1990年代あたりに文学から離れてしまったのは、村上春樹の小説なんかそうだが、フリーセックス主義で、貞操観を喪失して、サイコパスになって、乱交とフリント、離婚と枕営業援助交際を繰り返す壊れた男女があまりに増えてしまったためだった。罪も恥も何もなくなってしまい、お金と肉欲だけが残った。文学は死んだ。

 

コンビニという、小さな箱とその周辺。そんな体にワールドを描いただけなのに、この作品には、小説の面白さのすべてが、ぎゅっと凝縮されて詰まっている。

 

現実を描き出す、それは小説が持つ特質であり、力だ。今に限らず、現実は常に目に区市。複雑に絡み合っているが、それはバラバラになったジグソーパズルのように脈絡がなく、本質的なものを抽出するのは、どんな時代でも至難の業だ。作者はコンビニという、どこにでも存在していて、誰もが知っている場所で生きる人々を厳密に描写することに挑戦して、勝利した。

 

セックス忌避、婚姻拒否というこの作者おおなじみのテーマをコンビニ人間という、コンセプトに落とし込み、奇天烈な男女のキャラを交差させれば、緩い文章もご都合主義的展開も多めに見てもらえる。巷には、思考停止状態のマニュアル人間が自民党の支持者ぐらいたくさんいるので、風俗小説としてはリアリティがあるが、主人公はいずれサイコパスとなり、まともな人間を洗脳していくだろう。

 

田舎での偏見を警戒してもいるのだろう。語りては慎重に言葉を選びながら、自身の中に芽生えた志向と向き合っている。さらに震災体験がその中に織り込まれ、あの日を境に代わってしまった世界の心象を繊細に掬い上げることに成功している。

 

戦後まもなく場末の盛り場で流行ったお化け屋敷のショーのように次から次干支や捨てでえげつない出し物が続くような作品で、読み物としては一番読みやすかったが。この人の脂質は長編にまとめた方が重みが増すと思われる。

 

古い器を磨き、そこに悪酔いする酒を注いだような作品だ。社会や政治を呪うことさえできず、何事も身近な他人のせいにする、その駄目っぷりが随所に自己戯画化が施してあり、笑える。

この作者のどうせ俺はといった開き直りは、

手先の器用さを超えた人間のあるジェニュインなるものを感じさせてくれる。この豊饒な甘えて時代にあって、彼の反逆的な一種のピカレスクは極めて新鮮である。

 

最初読んだとき妙な居心地悪さを感じた。その居心地の悪さは、作者の才能が細部に表れていないということだった。だが再度読み返した時、キリンと竜の入れ墨をいれたあと主人公がわけもわからず、生きる力を失っていく箇所を読んで、わたしの違和感はほぐれていった。突出した細部ではなく、破綻のない全体を持つ小説もあるということだ。

意識をひょげんすることは、無意識の境に踏み込みのに劣らず、厄介なことである。このような難儀の試みをあえて行う若い意志を私は、そうとして、前回の銃に引き続き、今回も評判の芳しくなかった、この作品を押した。

 

都会で過ごす若い女性の一種の虚無感に裏打ちされたソリテュードを、刑して深刻にではなしに、あくまで都会的で軽味で描いている。

寄宿先の設定も巧みだし、特に、その家からまじかに眺め仰ぐ、多くの人間たちが行き来する外界の表象たる駅への視線は極めて印象的で、限りなく透明に近いブルーの中の、遅くに目覚めた主人公が、開け放たれた扉の向こうにふと眺める、外界の描写の正確なエスキースに似た、優れた絵画的描写に通うものがあった。

 

作者は、視線を研ぎ澄ますことによって、意識や理性よりさらに深い領域から浮かんでくるものと接触し、掬い上げるのだ。

 

作者は意識して偽物の緊張や、恥ずかしい小細工を避けたのだ。その結果、この作品は、何かが常に始まろうとしているが、まだ何も始まっていない、という現代に特有の居心地の悪さと、不気味なユーモアと本の技うかな、あるのかどうかさえはっきりしない希望のようなものを獲得することに成功している。

疲れる女といるより、アパートで牛乳を温める方がいい、というセリフは正統な欲望、欲求を持ちえない成熟社会の若い男の台詞として、象徴的だと思った。

 

ある何かを待ち続けてたたずむ女性は、現代を象徴していると思えた。

 

 

批判系

感情移入できなかった。現代を知的に象徴しているかのように見えるが、作者の意図や計算が見え透いていて、私はいくつかの死語となったことばを連想しただけだった。ぺだんちっく、ハイブロウといった、今となては、ジョークとしか思えない死語である。

 

私には現代の若者のピアスや入れ墨といった肉体に付着する装飾への執着の意味合いが本質的に理解できない。選者のだれかは、肉体の毀損による、家族絵の反逆などと説明していたが、私には、浅薄な表現衝動としか感じれられない。

現代では他者が、必要以上の意味を見出いてくれる、浅薄なものでも、その裏まで深読みしてくれる他者のおかげで、自分が何か尊いもののように感じられることがあるものなのだ。

 

背景に主人公の幼いころからの被虐待という経験がもたらしたトラウマがある、ということになると話がいかにも分かりすぎて、作品が薄くなることが否めない。

観念としてではなしに、何か直裁なメタファを設定することで、この作者は将来、人間の幹部を探る独自の作品の造形が可能だと期待している。